真理姫:木曽氏に嫁いだ武田信玄の娘
あまり知られていませんが、甲斐の武田氏と木曽氏とは戦国時代に婚姻関係にありました。江戸時代初期に木曽氏が大名として滅亡すると、木曽氏に嫁いでいた武田信玄の三女である真理姫は三岳の地に移住し、この地で亡くなったとされています。
木曽氏に嫁いだ真理姫
戦国時代から安土桃山時代にかけ、第19代の木曽氏当主として君臨した木曽義昌の夫人は、武田信玄の三女で、天文17年10月に山梨県甲府より輿入れしています。
木曽氏と武田氏とは婚姻関係を結び、武田氏としては、織田信長への備えとして木曽氏を取り込んだ形となりました。しかし、紆余曲折の結果、木曽義昌は織田信長に通じ、武田氏との同盟的な関係は途切れてしまいます。
木曽義昌は天正18年(1590年)に豊臣秀吉により、下総国海上郡で1万石に移封させられました。
網戸村(現在の旭市)の近くに城を構えた義昌は、文禄4年(1595年)に56歳で没し、その子義利が後を継ぎました。
しかし義利は暗愚のうえ暴挙が徳川家康に知れ、改易となり城は没収され、木曽義仲から数えて18代、420年あまり続いた木曽氏は滅亡してしまいました。
木曽氏滅亡後の真理姫
義昌夫人の真理姫は義昌に従って網戸に赴き、義利改易後、末子の義通を伴って木曽に帰り、黒沢村の上村家に隠棲したとされています。
真理姫は98歳の長寿を保ち、天保4年に上村家で病没し、この地に葬られました。その墓とされる五輪の塔が現存しています。
なお、真理姫・義通の親子は木曽各地に散居している義昌の旧家臣の関係を密にすることによって木曽氏の再興を念願としていたようです。なお、義通は三尾の小島地区に所在した小島氏の庇護を受け、小島で一生を過ごしたとされています。
野口地区に真理姫の墓である五輪の塔が、小島地区のエドヤマザクラの下に真理姫ゆかりの石地蔵と五輪石があります。