百草と御嶽について

古くから登山者が御嶽土産として持ち帰ったと伝わるものに、百草があります。

木曽地域では御嶽山の麓で薬草が多く採取されたことから百草の調合がさかんであり、貴重な薬として作成されていました。

百草の効能

百草は、キハダという木の皮の成分を煮詰めて取り出した、いわゆる黄柏(オウバク)エキスが主成分で、これにゲンノショウコ、ビャクジツなどの漢方でも用いるような薬草を加えています。
キハダは古くは縄文時代の遺跡から出土し、山岳修験者の常備薬として重宝されてきたとされています。

百草の効能としては、胃腸薬としての活用がメインですが、切り傷や打ち身などの塗布、眼病に対する目薬としても使用できます。

昔から使用されていた百草は板状のものでしたが、近年、粒タイプが「百草丸」として瓶詰めされ流通するようになり、東京などの大都市圏の薬局でも一般的に販売されるようになりました。

御嶽山と百草

百草は、「だらにすけ」と称して、奈良時代に奈良東大寺で作られており、高野山などで早くから売られていた、とされています(「御嶽の歴史」生駒勘七著)

かつて百草は、主に福島から御嶽山麓までの沿道にあった百草屋、茶屋などで売られていたそうです。古い資料によれば、御嶽山の信者は百草を「御神薬」と称し、御嶽登山の際、山小屋や休憩茶屋などで購入していたようです。

詳しくは、長野県製薬株式会社のホームページに掲載されています。

古くは紀元前縄文時代から続く人間と植物の共存関係。
人々の健康に寄りそってきた百草と御嶽山、木曽地域の奥深い発展の歴史です

長野県製薬株式会社HPより

https://www.hyakuso.co.jp/history/hyakuso.php

百草製造の歴史

明治期には、百草の販売事業者が「百草営業組合」を組織化したようで、その際は10以上の業者がいたようです。

昭和に入ると、家内工業的な生産から、より大規模な産業化を目指す動きがあり、昭和16年に「木曽製薬工業組合」が発足したとされ、福島町の中島地区に百草工場を建設し、製造規模を拡大しました。

昭和18年に「長野県売薬製造統制株式会社」が戦時下の企業整備令によって長野市に設立されましたが、当時の県下に規模の大きい製薬業者がいなかったため、「木曽製薬工業組合」が主な出資者でした。
昭和18年8月には、「長野県売薬製造統制株式会社」が「長野県製薬株式会社」に商号変更していますが、福島町中島地区の百草工場で生産する百草が、会社の全製品の90%を占めていたそうです。

そして、昭和23年の戦後の時代に入ると、「長野県製薬株式会社」の本社を福島に移し、福島の本社工場のほか、当時の三岳村(栩山地区)と王滝村に分工場を設け、大規模な製造を行いました。

その後、王滝村此島(このしま)地区に近代的な設備を有した工場が新設され、本社もここに移しました。現在の王滝村に存在する長野県製薬株式会社です。

長野県製薬株式会社

長野県製薬のほか、百草の製造は木祖村の薮原地区でも「日野製薬株式会社」が行っており、この2社により、今日まで百草が製造され、全国にそのユーザーを広げています。

日野製薬株式会社

※上記は、御嶽神社里宮の所在する栩山(とちやま)地区にある日野製薬「里宮店」

産業

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