森林鉄道について

三岳村の県道から山を見上げると、その中腹に道路の跡のようなものをうかがうことができます。林の中に埋もれており、冬場くらいしかはっきり確認することができませんが、これは昔、「森林鉄道」が上松町から王滝村、旧開田村に向かって引かれていた名残で、その線路跡です。

※上記は、森林鉄道の跡。左の画像の山の中腹に、森林鉄道の線路跡が見えます。右の画像は森林鉄道で使われたトンネルの跡です。

森林鉄道の整備

森林鉄道は、帝室林野管理局(戦前の宮内省の外局で、御料林の管理運営を担っていた)が整備を進めたもので、上松町を起点とし、王滝村と旧開田村に向けて整備されました。大正6年に工事が着工され、上松王滝間は大正11年9月に開通しました。開田へのルートは昭和8年に着工され、昭和12年12月に竣工したそうです。

参考:林野庁 明治期の国有林野事業について

村内においては、大正8年に帝室林野管理局への用地提供の準備が整い、まずは現在の大島に駅が造成されました。大島駅は、大滝線と開田線との分岐点ともなり、重要な位置を占めていました。

大島駅が整備された後、三尾地区に沼(下条の地籍)停車場と小島停車場も造られました。また、沼から対岸の日向(ひなた)の県道に出られるよう、三尾橋も架設されました。

村内の北部地区にも停車場が複数造られ、これにより村内の交通の便は飛躍的に向上しました。

上記は沼駅。右奥に三尾橋が見えます。

こちらは大島駅。右は開田に向かう列車。

住民の利用

本来の目的は大滝村や旧甲斐田村からの材木の輸送でしたが、地元である旧三岳村、大滝村、旧開田村の住民から、農産物や村の必需品の輸送、住民の足としての利用などの陳情があり、住民の利用が森林鉄道の運営事業者から許可されました。

利用者の際は居住証明が必要となり、村が発行した証明を乗車の際に提示することになっていました。また、乗車賃が無料で、住民は気軽に利用していたようです。

当初は客車以外にも、材木の上や台車などにも乗っていたようで、特に戦時中や戦後の食糧難の時代には、上松町方面から山菜取りの人々が台車の上にいっぱいに乗り、帰りは材木の上にもたくさん乗って戻っていくような状態だったそうです。ただ、やはり危ないということで、客車以外の乗車を禁じるようになりました。

上松町との経済的な結びつきも強くなり、村内で採れた農産物を上松町に売りに行ったり、買い物も上松町でする、という状況のようでした。また、上松町からは多くの行商が毎日やってくるようになったそうです。
上松町に通っている現在のJR(当時の国鉄)の中央西線(塩尻と名古屋の間)の利用についても、上松町まで森林鉄道を利用し、そこから列車に乗り換えたようで、森林鉄道の登場により、極めて交通の便が向上したと思われます。
修学旅行や、陸上競技会への出場などに児童生徒が利用するための臨時列車も用意されたようです。

利用実績

前述のように、村内の停車場は8つあり、その場所は、沼(現在の下条)、小島、大島、栩山、白川、障子沢、倉本、瀬戸原だったようです。昭和23年度に村内の停車場で乗降者した利用者数は年間延べ6,800人ほどで、当時の人口から考えても利用者数は多かったものと思います。

なお、昭和25年度の王滝線の乗車人数は24,000人余り、開田線の乗者人数は2,700人余りであり、王滝線の利用者が多いことが分かります。

森林鉄道の最後

このように住民からとても愛された森林鉄道ですが、道路が整備され、自動車の利用が一般的になってくるとその役割を終え、昭和36年12月に開田線が、昭和50年5月に王滝線が、それぞれ廃止されるに至りました。

なお、王滝線は全国で最後まで残されていた森林鉄道でした。

現在では、その鉄道跡の荒れた道が、往時を偲ぶのみとなっています。

※かつて沼駅があった場所の下から、三尾橋を臨んでいます。

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