御嶽登山の歴史②江戸時代から現代まで

御嶽山は信仰の山であり、古くは平安時代から信仰の一環としてその頂に登る「登拝」(とはい)が行われてきました。

黎明期から戦国時代までを解説した前回に引き続き、今回は、江戸時代から現代までの御嶽登山の歩みをご紹介します。

江戸時代の御嶽登山

江戸時代、木曽代官の山村氏が御嶽信仰に篤く、著名な能吏だった山村良由(山村氏第9代目で、「蘇門」と号しました)が享和3年(1803年)に家臣や地元民を引き連れ御嶽に登った記録も残されています。
この時の登拝は、家臣31人、黒沢・王滝両村の者55人、総勢86人という大規模なもので、下山後、前回の記事でご紹介した木曽義昌の故事に倣い、黒沢の若宮に額を奉納しています。

江戸時代は民間においても、講社による御嶽信仰の熱が高まり、遠方より御嶽詣でを行う者が増加していきました。
講社の賑わいは、御嶽信仰の歴史を解説した以下の記事でも記載しています。

また、講社の賑わいに伴い、御嶽山に登る道には多数の茶屋や民間の宿泊施設が作られ、大変な盛況となっていったようです。

さらに、幕末に近づくと、孝明天皇が内憂外患を憂い、聖護院の因幡堂柳坊照空に御嶽山で祈祷するよう命じされ、照空は安政2年(1855年)から3年続けて王滝口から登山し、田ノ原で大護摩を行っています。
この孝明天皇の命により、御嶽山の名声は世に広く喧伝され、万延元年(1860年)に江戸本所回向院で御嶽権現の本地仏大如来像の出開帳が行われるなど、御嶽信仰や御嶽登山の普及に大きな役割を果たしました。

外国人と御嶽山

明治期に入ると、日本各地で外国人による高山への登山が広まりました。
外国人による登山の始まりは富士山ですが、実はそれに次いで早かったのは御嶽山です。

公式的に伝わる中で外国人で最初に御嶽山に登ったのは、明治6年(1873年)のイギリス人ウィリアム・ガウランドとエドワード・ディロンの2人です。
ウィリアム・ガウランドは御嶽登山後に立山・焼岳・槍ヶ岳・爺岳・五六岳・乗鞍岳にも登っており、飛騨山脈の山に対して「日本アルプス」と名付けた人物とも言われており、日本美術や古墳の研究者としても知られ、日本政府から勲三等旭日章を贈られています。

このほかにも、明治7年にイギリス人ワイウイー・ハウスほか2名とドイツ人J・J・ラインが、明治8年に再びウィリアム・ガウランドがアーネスト・サトウというイギリス人と登山しています。

ワイウイー・ハウスはアーネスト・サトウとともに御嶽登山の様子を細かく記した著書を出版しており、その記述も非常に興味深いものです。

御嶽街道の整備

明治政府の道路整備の施策により山麓も徐々に「御嶽街道」として整備されたことから、御嶽山及びその山麓である王滝村・三岳村・開田村(三つの村を合わせて嶽麓三村(がくろくさんそん)と言います。)も栄えることになりました。

「御嶽街道」は、現在の木曽町福島にある行人橋(ぎょうにんばし)を起点に大正元年から工事が開始され、昭和4年に王滝村の上島を終点として完成しました。

これにより、バスによる登山者の輸送も可能となり、木曽福島駅からバスで王滝村の上島までバスに乗って移動し、そこから登山を開始する人が増えました。

明治初期の登山者数のついての正式な統計はありませんが、伝聞等では年間2~3000人ほどだったと言われています。大正時代になると急増したようですが、ここも統計はありません。昭和に入り初めて統計的な情報が残されますが、それによれば概ね年間3万人くらいの登山者数だったようです。

戦争の時代を挟み、戦後である昭和30年代には年間の登山者は約4万人を数えたとされ、これに伴い、昭和36年頃、木曽福島と三岳・王滝間の県道の改良工事も多いに進みました。
例えば三尾と黒沢を結ぶトンネルである「小島トンネル」の修繕なども行われるなど、交通網は劇的に改善されました。
木曽福島と黒沢の間のバスの所要時間は40分から20分に短縮され、昭和46年には、木曽福島から運行されるバスが黒沢口の中の湯まで繋がり、登山者の利便性が向上しました。

まとめ

今回は、御嶽山の登山にまつわる歴史を2回に分けて解説しました。

登拝の歴史は御嶽信仰と結びつき、地元との関係も非常に深いもので、三岳地区の歴史そのものともいえます。

前回の記事でご説明した「阿古太丸」についてや、覚明行者に続く行者の活動など、さらに深掘りして解説すべき事柄もありますので、また別の記事でご紹介したいと思います。