三尾の常盤橋(ときわばし)

三尾地区の橋渡(はしど)と黒田の2か所をつなぐ常盤橋は、明治時代に「常盤講」(ときわこう)によってかけられました。

今回は、木曽福島や上松町から三岳、王滝に至る重要な交通網である常盤橋について、その沿革などを解説します。

三岳の河川と渡し舟について

旧三岳村は急峻な場所に立地する山村であり、王滝川や西野川などの複数の河川が村内の地区を分断していました。

明治時代より以前は、大きな川であれば渡し舟を使用して渡河しており、例えば中部地区の大島や、三尾地区の小島では川筋が大きいため、渡し舟を使っていた記録があります。

特に三尾地区は川の水量が豊富であったため、「三尾の十渡し(とわたし)」と呼ばれる10の渡し場があり、日常的に利用されていたようです。

渡し舟による渡河は危なく、たびたび水難事故も発生したようです。
小島の渡しのあった河原には水難者供養のための石地蔵が建立されています。

常盤橋以前

現在の「常盤橋」が設置されている場所の地名は「橋渡(はしど)」といいますが、その地名のとおり、元々この場所には橋が掛けられていたようです。

宝暦7年(1757年)に記された「吉蘇志略」(尾張藩の命令で、木曽の沿革や地形を記した書物)に、「元禄14年に洪水で橋が壊れた」旨の記載があり、江戸時代にも橋は掛けられていたものの、その橋は洪水で流されたようで、その後は渡し舟を利用していました。

渡し舟は乗るにも技術がいるようで、そのようなものを利用せずに渡河できるようにするため、橋の建立が願われていました。

常盤橋の設置

常盤橋は、明治7年に、御嶽山信仰の講のひとつである東京の「北常盤講社」が独力で設置したものが最初と言われています。

この橋は、川の中ほどにあった大きな岩を利用してかけられた木製の橋だったようです。また、この橋は、現在の場所より少し下流にあったようです。

多額の浄財を投じて橋を架けてくれたことへの感謝として、現在の常盤橋の近くに記念碑と歌碑が建立されています。

今では歌碑に書かれた文字は判読できませんが、「三岳村誌」によれば、

 動きなき厳ぞはしの柱にて かけし功も常盤ならまし  藤沢正樹

とあるようです。

なお、この碑のある場所(黒田側)の対岸(橋渡側)の松の下には、それより古く、文化の頃(1800年代の初め)、飯田の「いろは講」が、渡し舟の安全を祈願して建立した常夜灯も残っています。

現在の常盤橋

常盤講が整備した常盤橋はその後、明治41年と昭和5年にかけ替えられました。
そして、昭和33年に、牧尾ダム工事の道路改修によって、現在の鉄筋コンクリート造の橋が作られ、今日に至っています。

かつての橋の面影は残っていませんが、常盤橋の袂(たもと)から見下ろすと深い渓谷となった川を見ることができ、まだ橋が無かった当時の苦労が偲ばれます。