霊神碑について(建立の歴史など)

三岳には「霊神碑」(れいじんひ)と呼ばれる特殊な石の構造物が多く林立しています。
特に、御嶽山に登っていく途上、栩山にある御嶽神社里宮から現在の登山道の起点となっている六合目、さらにその上の八合目まで、膨大な数の霊神碑が立ち並び、壮観な様相です。

今回は、霊神碑について、その建立の歴史などを解説します。

建立の由来:覚明行者と普寛行者

御嶽山はもともと深い山々の更に奥にある独立峰であり、険しい道のりは人々の流入を阻んでいました。そんな御嶽山を崇拝し、登山道を築いたのが、覚明行者と普寛行者です。

覚明行者は江戸時代の尾張の生まれで、天明5年(1785年)に木曽を訪れ、黒沢口から御嶽登山を敢行し、天明6年(1786年)に、御嶽山の遥か山頂付近にある二ノ池付近で往生しました。
普寛行者は江戸時代の秩父の生まれで、覚明行者を追うこと10年あまり後の寛政4年(1792年)に、王滝口の登山道を開きました。
両行者の功績は別の機会に記事としますが、両行者の霊を神として御岳山中に祀ったのが、霊神碑建立の始まりとされています。

覚明行者・普寛行者に続いた一心・一山行者は、「御嶽の神を信仰する者は、死後その霊魂は童子としてお山(御嶽山)に引きとってもらえる」と説いています。
一般の信者も、死後、自らの魂が御嶽山に還ることを願い、御嶽山麓に霊神碑を建立する動きが広まったようです。

御嶽信仰独自のこの霊魂観が多くの霊神碑を建立させ、山麓から山頂に至る黒沢口・王滝口それぞれの登山道の道脇には、約二万基を超えるとされる霊神碑が林立しています。

現存する霊神碑について

覚明行者の霊神碑で最も古いものは、天保14年(1843年)に岩郷村(現在の木曽福島地区の川西)で建立された石碑で、自然石に「覚明神霊」と刻まれています。

古い石碑は「菩薩」「大権現」など、(仏教の)名号を用いるものが多いのも特徴です。江戸時代、神仏習合思想である両部神道が広く一般化しており、その流れにあるものです。

現在多くの霊神碑に刻まれている「●●霊神」の号で記載された石で最も古いものは、三岳地区黒沢にある弘化3年(1846年)の霊神碑です。
この霊神碑は、御嶽講の一つである巴講の祖、亀翁の霊神碑で、これは覚明・普寛行者以外の一般の信者の霊神碑としての建立の始まりでもあります。

なお、御嶽山の信仰においては、例えば「御嶽教」という一つの宗教が統括して存在しているわけではなく、また、江戸時代より、御嶽参りを行う全国各地域の集団である「講」(こう)がそれぞれ別に参拝を行っており、霊神碑についても、それぞれの御嶽講が御嶽山麓に土地を求め、各々に霊神碑を建立しています。

御嶽講についても、別の記事でご紹介することにします。

霊神碑の形

霊神碑と一言にまとめても、その形式は時代によって変化してきています。

江戸時代の古い霊神碑は、自然石に「●●霊神」と表す形式となっています。主に丸みを帯びた大きな石を用いていました。

明治時代に入り、石の加工技術が向上してくると、石の裏面や側面、台座の石などにも、霊神の俗名(生前の本名)、講社名、建立年月日などを刻むようになりました。

近年では石の表面を研磨したものも多く、整った形に完成されています。

まとめ

霊神碑と御嶽信仰は切っても切れない密接なものであり、その建立は、信者と御嶽山をつなぐ太い絆を表したものとなっています。

今なお御嶽信仰の往時を偲ぶことのできる追憶の場として、霊神碑はその姿を保っています。