まぼろしの鉄道「信飛路線」

かつてから三岳村の地区では一般的な鉄道がありませんでした。

しかし、実はかつて、飛騨高山と木曽福島をつなぐ鉄道を敷設する計画があったことをご存知でしょうか。

今回はその「まぼろしの信飛鉄道路線」についてご説明します。

信飛鉄道予定路線

計画

伝聞によれば、明治末期、中央線木曽福島駅から、高山線の岐阜県久々野(くぐの)駅に至る信飛鉄道(信州と飛騨を結ぶ新路線)の実現について、地元である木曽では議論になっていたようです。

大正時代になると政府は、鉄道敷設法の改正案を国会に提出し、三岳村を含む地元においても信飛路線の実現について同盟会を設け、各方面に働きかけを行ったようですが、この時も成果を収めるには至らなかったようです。

調査

それから十数年後の昭和11年7月、突然、鉄道省運輸課が長野県と岐阜県を結ぶ路線が開通した場合の沿線の経済効果などを調査しはじめ、にわかにその気運が高まってきました。

この時の調査では、松本と高山を結ぶ松本高山線に関する野麦峠方面の調査を実施しつつ、次いで岐阜県久々野方面より開田、三岳を経て福島に出る形の実測を行ったようです。その結果は公表されなかったそうですが、木曽と岐阜を結ぶ線は松本線に比べて距離が短く(松本線は延長約96.6キロメートル、木曽線は48キロメートル)、勾配も緩やかで、トンネルの敷設も比較的少なくて済むなど、実現に向け有利だったようです。

昭和11年9月には、福島町長、三岳村長、開田村長が発起人となり、福島町水無(すいむ)神社にて、「信飛鉄道期成同盟会」の発会式が開かれ、飛騨側からも久々野村長、高根村長をはじめ、多くの関係者が集まったようです。

結果

このように盛り上がった信飛鉄道敷設運動ですが、ちょうどこの頃、日中戦争が勃発し、その後の太平洋戦争に繋がる長い戦争の時代に入ってしまったため、松本高山線も含めて陽の目を見ることなく、まぼろしとなってしまいました。

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