戦国時代のいくさ「王滝合戦」について
木曽谷は深く、都市から離れていることもあり、この地で戦争が発生したという伝聞はあまりありません。
いくさが多かった戦国時代にも、現在の塩尻市と木祖村との境にある鳥居峠を巡る天正十年(1582年)の木曽義昌と武田氏との「鳥居峠の合戦」くらいです。なお、この戦いでは、黒沢村から上村作左衛門が参戦しており、力戦ぶりが伝わっています。
そんな木曽の中で伝わる戦国時代中期の「王滝合戦」について、解説します。
永正元年(1504年)のこと
戦国時代中期の永正元年(1504年)、飛騨の軍勢が御嶽山麓の国境を越え、王滝に侵入し、王滝城(「おんたけじょう」と呼びます)を中心に合戦が行われたと伝えられています。
飛騨の軍勢は、「西筑摩郡誌」によれば飛騨の国司である姉小路済継の重臣である三木重頼の軍勢300名余りだったようです。
木曽側では、木曽義元に命ぜられ、まずは7月10日、三尾五郎左衛門(郡誌には「重国」とあります)兄弟が兵を率いて上島砦に入りました。
なお、三尾氏は木曽家村の四男、贄川家光をその祖とする家系で、三尾村を治めていました。
文明7年(1475年)、木曾家豊の子として誕生。初めに左京大夫義清と名乗り、のちに義元と名乗る。木曾氏当主として勢力拡大に努め、飛騨の姉小路氏・三木氏と抗争した。
(Wikipediaより引用)
木曽義元は7月11日に福島で兵を集め、大雨の中、230名を率いて夜に王滝城に入りました。その過程で、三尾兄弟が入った上島砦が飛騨勢の攻撃を受け陥落した報を受けています。
王滝城と砦の位置。王滝城は左下に見えます。
王滝合戦
木曽義元が王滝城に入場し、城兵が食事をしているところへ、飛騨の軍勢が押し寄せました。義元は臣下とともに奮戦したものの、王滝城は陥落してしまいました。
義元は沢渡峠から三尾へ抜けようとしたものの敵兵の追撃を受け重傷を負い、峠から王滝川べりに下って黒瀬に渡り、ここで輿に乗って福島に向かいましたが、途中の岩郷(現在の木曽福島)の川合でついに戦死しています。
この後、木曽谷中の兵と裏木曽から駆け付けた兵とで飛騨勢を挟み撃ちし撃退した、と伝わっています。
この画像は、現在の王滝とダムに沈んだ黒瀬との境付近
負野(まけの)
木曽義元の軍勢は黒瀬で激戦の末、多くの戦死者を出しました。
土地の人々はその場所を「負野」と呼ぶようになりました。木曽氏はこの呼び名を嫌い、「牧野(まきの)」と呼びように指示を出したそうですが、黒瀬では相変わらず「負野」と呼んでいたようです。
負野へのその後、王滝城と和田砦にいた5人の敗残兵が来て、そこを開拓して住み、黒瀬の民と同化していきました。
黒瀬がダムの建設で水没するまで、平和に共存したと伝わっています。
なお、三尾地区大半場に「勇士の塚」と呼ばれる塚がありますが、これは今回ご紹介した飛騨の軍勢との戦いで負傷した武士が、大半場の地まで落ち延びて死に、その墓として建てられた、という伝承があります。