御嶽信仰の歴史②明治期以降

別の記事で、御嶽山の信仰の歴史を書きましたが、今回はその第2段として、明治期以降の御嶽信仰について解説します。

第1段の、江戸時代までの御嶽信仰については以下で解説しています。

明治維新と神仏分離

明治維新により、神道を国教とするなど日本の体制が改まったことにより、それまで当然だった神仏習合が否定されました。

御嶽神社においても江戸時代まで黒沢里宮を「御嶽座王権現」、若宮を「安気大菩薩」と称していましたが、それぞれの仏式の呼び方を改めることに迫られました。
このため敷地内の仏像を取り除き、「権現」等の名称は辞め、「御嶽神社」と称するようになりました。

さらに、明治政府の方針により、日本全国の神社を宗教と別の扱いとし、それぞれ「官国幣・府県・郷・村」などを順番とする社格(神社の序列)が定められました。

明治5年に、木曽においてもそれぞれの神社の社格が定められましたが、黒沢村の御嶽神社は木曽惣社(そうじゃ:国・郡・郷など一定地域内にある神社の祭神を1ヵ所に勧請し祀った神社のこと)として由緒が認められ、木曽谷では最も高い社格である「郷社」となりました。

御嶽信仰と講社

御嶽を信仰し講を組織して御嶽山の登拝(信仰として山に登ること)を行う「御嶽講社」は、全国各地に散在し、幕末の頃にはその数が数百にも達していたとされています。

しかし、明治維新後、講社が宗教活動を継続していくには、いずれかの教派に所属しなければならず、各講社はそれぞれ教派神道の各派に所属し、教団化していきました。

その動きの中で、講社を結集して一派を創立しようとしたのが下山応助で、明治6年に御嶽教会を設立し、初めは大成教に所属していたものの、明治15年に独立し、現在奈良市に本庁を置く「御嶽教」となりました。

この動きとは別に、神道系の教団に所属する講社もあり、それぞれの講社の伝統を受け継いで毎年、御嶽への登拝を継続している方も多くいます。
このような、講社を出発点として現在まで信仰が続いていることも、御嶽信仰の大きな特徴です。

なお、戦後になり、宗教活動の自由化もあり、御嶽神社を主体とした本来の御嶽信仰に復帰する運動も起こりました。
その中で、地元黒沢の御嶽神社を中心とする「木曽御嶽本教」が成立し、現在も三岳地区黒沢に本庁を置いています。

霊神碑について

旧三岳村や王滝村には、御嶽山独自の信仰である「霊神碑」が信者により数多く建てられました。
主に、それぞれ講社が自分たちで土地を確保し建立してきているもので、現在も三岳地区に多く残されており、三岳地区だけで15、000碑もある、とされています。

霊神碑は、死後の霊魂の憩いの場を御嶽に求めようとする御嶽信仰独自のもので、講社の活動で功績のあった行者などを霊神として崇拝する文化から発生しており、講社を中心に、霊神碑という依代(よりしろ)を御嶽山の麓から山中に建立してきた歴史があります。

明治以降の近年では、行者のみならず、御嶽を信仰する一般の方の霊神碑も作るようになりました。

三岳地区の中央部の羽入(はにゅう)から屋敷野(やしきの)あたりには、三岳地区の霊神碑のほぼ八割以上にあたる13、000碑も建立されているようです。

霊神碑については以下の記事で解説しています。

御嶽山と登山について

明治期以降の御嶽信仰について、解説しました。

御嶽山は、標高3067メートルもある巨峰ですが、多くの方々が登山を行ってきた山です。

行者による修業としての登山から、講社の活動としての登山、そして明治期には外国人による登山(調査)も行われました。

次回以降で、御嶽山の登山の歴史について、解説したいと思います。