御嶽信仰の歴史①江戸時代まで

長野県と岐阜県の県境に悠然とそびえ、古の昔から信仰の山として知られてきた御嶽山(おんたけさん)は、旧三岳村を語る上で切っても切れない関係にあります。

独立峰であり、全国に広がる御嶽信仰の始まりなどについて解説します。

名称「オンタケ」の由来

御嶽はその昔より「オンタケ」と呼ばれていました。このように呼ぶ正確な起源は知られていませんが、もともと地元で「王の御嶽」(オウノミタケ)と呼ばれていたものがいつの間にか「王嶽」(オノタケ)となり、それが「オンタケ」となって定着した、とされています。

本来、御嶽は「ミタケ」と呼称されており、特に修験道と関係が深い山はミタケと呼ばれることが多い中、オンタケとの呼ばれます。

「三岳村誌 上巻」によれば、室町中期には王嶽がオンタケと変わったのではないか、推定しています。

御嶽登山の起源

宝暦3年(1753年)に尾張藩の名で編さん・刊行された「吉蘇志略」(きそしりゃく)によれば、御嶽山への登山について、

「6月12・13日祭礼なり。14日、事竣って山に登る。」

と記載があります。

この頃には、旧暦の6月半ばに御嶽山に登山していたことがはっきりと分かる資料となっています。

御嶽山に登る人たちは、江戸時代には「講社」として全国的に広がりを見せますが、それ以前は、黒沢(旧三岳村)と王滝を中心に木曽谷一円にわたっていたようで、例えば戦国時代まで木曽を治めた木曽氏の第19代当主の木曽義昌は、永禄3年(1560年)6月13日に御嶽山に登った記録が残されています。
(全く文脈には関係ありませんが、永禄3年は桶狭間の戦いが勃発した年でもあります)

地元の人々にとっても、御嶽山への憧憬や信仰は深かったものと推察できます。

なお、現在でも、旧暦の6月12・13日及び14日に応答する日に地元の御嶽神社で祭礼が行われています。

江戸時代の信仰の盛り上がりと講社(こうしゃ)

江戸時代に入り平和な時代が訪れたことから、伊勢神宮を目的とする伊勢講をはじめ、金毘羅講、稲荷講、富士講など、各地の名所を庶民が集団を作って来訪する風習が広まりました。

富士に次ぐ高山とされていた御嶽山では、当初は一般庶民の登山を禁止していましたが、ぜひ他の地域の人にも登山の道を開きたい、という熱意をもった覚明行者を中心とする修験者たちの取り組みにより、御嶽登山が広まっていきました。

覚明行者の功績は以下の記事で取り上げています。

覚明行者に続き、普寛行者が王滝の登山道を開き、御嶽信仰とその信者が増えると、全国各地に「御嶽講」と呼ばれる講社が作られていきます。

普寛行者やその子弟が活動していた関東の一円に急速に広まった御嶽講ですが、地元である木曽には覚明行者の子弟による布教活動により広がっていったようです。
また、覚明行者の出身である尾張を中心に、関西、遠く四国・九州などにもその布教が広まり、全国的に御嶽講が確立しました。

まとめ

江戸時代までの御嶽信仰の芽吹きについて解説しました。

別の記事で、明治時代に入ってからの信仰についてまとめます。

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