三岳中学校の歴史

旧三岳村の中学生が通っていた三岳中学校は、昭和22年に開校し、平成27年に惜しまれながら閉校しました。

今回は、三岳中学校の歴史について、解説します。

開校当時の状況

三岳中学校が開校した昭和22年は、戦後直後のことであり、戦前の様々な法制度が抜本的に見直された時期でもありました。

教育についても、昭和22年3月に学校教育法が公布され、小学校6年制・中学校3年制の合計9年間の義務教育制度が導入され、新たに「中学校」という教育期間が設けられることになりました。

旧三岳村においても学校教育法の公布に合わせ、昭和22年4月に「三岳中学校」が開校されました。

当時、1学年は2学級(2クラス)で合計80名、2学年は2学級で合計69名、3学年は1学級で合計33名だったようです。
2学年と3学年の生徒数が少ないのは、昭和22年の新教育制度導入当時、特例として義務教育の対象となったのが1学年からであり、昭和24年には全学年が義務教育の対象となりました。

中学校の開校当時は校舎の建設が間に合わず、小学校の北校舎の主だった部分を中学校が使用し、体育館や図書館などは小・中共用でした。
この状態は、昭和47年の中学校完成まで続きました。

教育の状況については、戦後直後の中、戦前の軍国主義的な学校図書はすべて処分しなければならず、戦争に協力したとみられる教師も追放されたりしたそうです。

校歌の制定

昭和34年には、三岳中学校独自の校歌が制定されました。

この時まで小学校・中学校ともに校歌がなかったようで、両校長(中学は橋爪浩氏、小学は雨宮穣氏)の意向により制定の気運が高まり、昭和34年3月に発表されています。

三岳中学校の校歌の作成については、当時、非常に著名な脚本家だった阿木翁助氏に対し、旧制諏訪中学時代の学友だった当時の小学校校長(雨宮穣氏)が依頼し、阿木氏の仲介で大木惇夫氏が作詞を、水藻秀男氏が作曲を担当しました。

阿木氏は当時から非常に著名な人物で、大木氏ものちに叙勲を受けるほどの作詞家であり、そのような人物たちに校歌を作ってもらえたことは幸運でした。

校舎の建設

中学校が開校されてから、独自の校舎を作ることは地元の強い願いでしたが、財政面の負担が重く、なかなか実現に漕ぎ着けなかったようです。

それでも、昭和35年には村議会で条例が可決し、建設の準備が始められました。

昭和37年から給食室・宿直室等の建設が始まり、昭和38年には体育館が完成しました。

その後、財政上の問題などから、なかなか本校舎そのものの建設が始まりませんでしたが、昭和46年にようやく建設が開始され、翌年の昭和47年7月に落成式が開催されました。

生徒数について

昭和22年にスタートした三岳中学校の生徒数(卒業した生徒数)の5年ごとの変遷は以下のとおりです。

年(昭和)S22年度S25年度S30年度S35年度S40年度S45年度S50年度S55年度S60年度
生徒数33名74名79名50名77名75名44名36名30名
年(平成)H1年度H5年度H10年度H15年度H20年度H25年度H27年度
生徒数30名24名27名15名13名8名8名

変遷のとおり、開校当初のひと学年の生徒数は極めて多く、70名余りでした。

昭和50年前後から大きく減少していき、平成初期で20名あまり、平成20年で10名あまりとなっていきました。

閉校について

生徒数の推移のとおり、三岳中学校に通う生徒の数が少なくなり、今後の三岳地区における中学校の在り方などが、平成22年頃から検討され始めました。

三岳地区の教育関係者や保護者などが多くの議論を行い、最終的には、三岳地区が含まれる木曽町の福島地区に所在する福島中学校との統合が決定されました。

統合に向け、平成26年6月に「福島・三岳中学校統合準備委員会」が設置され、新中学校名を「木曽町中学校」とするなど様々に決定されていきました。

そして、平成27年3月19日に開校記念式典が開催され、平成27年度末をもって三岳中学校は開校から69年の長い歴史に幕を閉じました。

三岳中学校の校舎は現在、地元の子どもたちの活動の場となり、プールがあった場所には三岳こども園などが建設されるなど、新しい歴史を歩み始めています。