御嶽信仰の功労者、覚明行者

別の記事で霊神碑について記載しましたが、御嶽山の信仰の歴史に欠かすことのできない人物が、修験者の覚明行者と普寛行者です。

今回は、この二人のうち、覚明行者について、その足跡を中心にご紹介します。

生まれ、生活

覚明行者は、享保3年(1718年)に、尾張国春日井郡牛山村という場所の農家の家に生まれました。「西筑摩郡誌」などでは幼名を「源助」といい、その後成年になり「仁右衛門」と名乗っています。

生家が貧しかったため、土器野村という場所の農家に引きとられた、とされています。

妻帯し、餅屋を営んだようですが、その生活は相当に貧しかったようです。

罪人のぬれ衣を着せされたことが原因となり、家を出て諸国を行脚するようになり、その中で修業を重ねた、と伝聞されています。

三岳への来訪と登山

覚明行者が最初に御嶽を登山したのは、天明5年(1785年)のことです。これは、許可のない登山だったとされています。

当時、鎌倉時代以来、黒沢村の神官武居家が御嶽山を管理しており、地元の者などの一部を除き、登山することを禁じていました。

覚明行者の初めての来訪は天明4年のことのようですが、その時には許可を得ることができず、尾張藩や福島の山村代官所へ請願したもののこれも許されず、翌年の天明5年に登山を強行したようです。

最初の登山の際には、山麓の村民を教化し支持を得ることに成功して、信徒とともに最初の登山を成功させています。

覚明行者の最期

天明6年にはさらに信徒を引き連れ登山を敢行しようとするとともに、黒沢村の薮原(現在の中部地区薮原)の杣長(そまちょう。木を育て材木を採取する杣人の長)の協力を得て、登山道の改修にも取り組みました。

この大事業に挑戦する途上、病に冒され、天明6年のうちに御嶽山二ノ池の畔で往生しました。

ミイラ化した遺体は信者たちの手により九合目に移され、現在の「覚明堂」の場所に葬られました。

その後

死後、覚明行者の功績が認められ、寛政4年(1792年)になって地元の神官武居家により登山の正式許可が下り、これによって御嶽信仰が地元のみの信仰から全国的な信仰につながりました。

この偉大な功績に対し、嘉永3年(1850年)に、江戸上野の東叡山日光御門主より「菩薩」の称号を授けられています。
黒沢の赤岩巣橋(中央部地区屋敷野)の霊神場(三合目半にある霊神碑の建立場)の覚明行者の霊神碑は、この時に建立されたものです。