黒沢村と三尾村の歴史

明治時代に入り三岳村が成立する前、この地は「黒沢村」と「三尾村」という村落が存在していました。

それぞれの名称は、戦国時代の資料にも見受けられます。

今回は、三岳村の前身である黒沢村と三尾村について、その歴史を解説します。

黒沢村について

黒沢村については、天文23年(1554年)に、御嶽神社本社へ木曽義在・義康親子が奉納した銅製の鰐口(がまぐち。寺社の社殿・堂前などに吊るされる神具で、参拝者が打ち鳴らす打具)に「信州木曽黒沢」と記載があり、このことから、戦国時代には既に「黒沢」という地名があったことが分かっています。

戦国時代には村落の単位として「郷」と「村」を使用しており、小さい集落を村と呼んだようです。
黒沢は戦国の頃は「郷」だったようで、その中に和田村・黒瀬村・下条村・中切村・上条村・井原村・倉本村の七つがありました。

江戸時代になると、行政単位として「村」が成立し、黒沢村は徳川幕府の直轄領として、筑摩郡木曽28村の一村に位置付けられました。

三尾村について

三尾村については、黒沢の地名と同じく、天文23年(1554年)に、御嶽神社本社の社殿再興の棟札(むなふだ。建物の新築や修理を行った際に、その建物の繁栄などを願って棟木や梁の裏などに取り付ける札のこと)に寄進者として「三尾村之尾島一貫二百文」と記載があり、三尾村も戦国時代にはその名称で呼ばれていたことが分かります。

三尾村も黒沢と同じく、戦国の頃は「郷」だったようで、その中に日向村・桑原村・入村・下条村の四つがありました。
(黒沢郷にも下条村が含まれていますが、それぞれ別の村です)

江戸時代に入り、徳川幕府の直轄領として、黒沢村とともに筑摩郡木曽28村の一村に位置付けられました。

江戸時代の木曽の村政

江戸時代、木曽は当初28カ村が定められていましたが、享保9年(1724年)に、末川村から西野が分化されるなど、複数の村が更に細分化され、33カ村となりました。

三岳の地域においては、江戸時代の初めより黒沢村と三尾村はそのまま並立し、明治七年に合併して三岳村となるまで、長きにわたって存続しました。

江戸時代の村内の家の構成

村の住民の多くは農民でしたが、少数の役人や寺社関係の家もありました。
享保9年(1724年)の黒沢村と三尾村の家の構成が以下のとおり残されています。

家の種類黒沢村三尾村備考
村役人庄屋・組頭
大泉庵・普門院
社人(神官)御嶽神社
門屋3313村内の庄屋などに属する家
寺百姓寺社の小作人家
空き家
その他(百姓)19899

この頃における黒沢村の人口は1500人あまり、三尾村の人口は700人あまりのようで、1つの家あたり6人ほどが住んでいたことになります。

まとめ

黒沢村と三尾村について、主にその歴史を解説しました。

両村は明治時代の初期まで存続し、筑摩県に属しました。そのうえで、全国的な国の強い働きかけにより、明治7年9月7日(旧暦)に両村は合併し、三岳村となりました。

両村は互いに若干遠く、地理的な不便さにより当初は分村運動が発生したこともあったようですが、分村への反対運動もあったようで、平成を迎えるまで三岳村であり続けました。