御嶽登山の歴史①黎明期から戦国時代まで

御嶽山は信仰の山であり、古くは平安時代から信仰の一環としてその頂に登る「登拝」(とはい)が行われてきました。

今回は、今なお続く御嶽山への登山について、その始まりから戦国時代までの歩みをご紹介します。

御嶽登山のはじまり

日本の多くの山々にも山岳信仰が残っていますが、その多くは鎌倉時代の修験者たちによって開かれたものです。

御嶽山への登山は、すでに信仰の形態の一つとして古くから行われており、平安時代から鎌倉時代にかけ、古代の山岳信仰に基づく修験道の道場として開山されました。

当初は他地方から訪れた修験者たちによって開かれましたが、その後、山そのものに畏敬の念を抱く地元の人々の民間信仰により、独自の信仰形態となっていきました。
それに伴い、登拝の方法も格式化されていったようです。

伝承の一つではありますが、醍醐天皇の時代、京の公卿北白川宿衛少将重頼という人の子である「阿古太丸」(あこたまる)の登山にまつわる伝説が残されており、平安の当時にも既に京の人間までもが登る山として「御嶽山」が認知されていたことが分かります。
なお、「阿古太丸」の伝説については、別の記事でご紹介します。

地元の信仰集団「道者」の登山

地元住民を中心とした信仰集団は「道者」と呼ばれており、複数の集団がそれぞれ格式をもって登山を行っていたようです。

伝わっているところによれば、例えばある道者の集団では、登山前に100日間の精進期間を置き、この期間では白衣を着て、食事は家族と別にし、食事道具も新調することとされていたようです。
食事内容も、五辛(にんにく・らっきょう・ねぎ・ひる・にら)と魚鳥の食用を禁止されていました。

登山の少し前には、里宮に御神酒を持参し、湯立神事を行って身を清め、旧暦の6月14日に里宮を出発し、山頂を目指しました。

当時の登山道はあってないようなものだったそうで、実際に登山する者はごく僅かったようです。その代わり、代参(だいさん)として、道者に代わりに登山してもらう者もいました。

木曽義昌の登拝

木曽氏は御嶽山への信仰が厚かったと伝わっていますが、中でも第19代にあたる木曽義昌はその尊崇が極めて厚かったようで、永禄3年(1560年)の夏に、自ら家臣を引き連れ、御嶽山に登拝しています。

山頂まで登り、武運長久を祈願し、登山後は三岳の御嶽神社若宮に木額の絵図を奉納したとされ、永禄11年(1568年)には、かつて若宮境内で行われ廃れていた流鏑馬(やぶさめ)の神事を再興し、福島の興禅寺・長福寺・西光寺の三か所の寺の住職による大般若転読の行事も復活させた、と伝わっています。

このように、木曽氏、特に木曽義昌と御嶽山とは深い深い縁に結ばれており、木曽氏の正統が途絶えた今でも、古書や御嶽神社に残る遺物などでその様子をうかがうことができます。

まとめ

御嶽山への登山に関する黎明期から戦国時代にかけての解説を行いました。

江戸時代に入ると、大衆一般に広く旅行ブームが広まり、「講社」を作って集団で神社・仏閣を巡る動きが活発となりました。

別の記事でも紹介していますが、覚明行者の活動により、御嶽山を講社が詣でることができるようになり、より多くの人々の間に御嶽山への信仰が広まり、登拝の活動も活発となりました。

別の記事で、江戸時代以降の御嶽登山について解説します。